中国語五里霧中(その5) 話す
さて、今日はついに「五里霧中」シリーズの最後、話すの番となりました。
このシリーズは軽い気持ちで書き始めたのですが、文法→読む→書く→聞くと進むにつれて、タイトルどおり(?)ますます霧が深くなり、どちらに進むべきかを示すことが怪しくなってきました。こんな調子で、私のクエスト(冒険の旅)は、広い海原を望む目的地にたどりつくことができるのでしょうか?
しかし考えてみると、これがトホホ…の「さまよえる中級者」(☜ 2018-12-31 参照)にふさわしい状況なのかもしれません。
(0)話し手の側に立つ前に、聞き手から見た「話す」に少し触れます。はたから見て、「あの外人は話せる」とか「話せない」と評するのは、どんなことか?
まず「話せる」について。
最近のテレビ番組は海外ネタにあふれていて、日本語を話す外国人がどんどん登場します。なかでも外人タレントと言われる人々の流暢な日本語を聞いていると、程度の差はあれ、「素晴らしい!」の一言です。過去には、ひどく聴きずらいアクセントの日本語を話すタレントもいたものですが、現在の外人タレントのほとんどは、おそらく最初の段階で、なんらかの日本語教育プログラムを経験済みの人たちだろうと推測します。そして今なお新しい言葉を吸収し、新しい漢字を覚え、努力を続けてる人もいます。
他方の例は、日本で店を経営する、あるアジア人の場合。彼は不自由なく日本語で会話し、電話も流暢に応対できますが、実は、日本語の文字は読めない。聞く・話すだけの日本語です。この人の場合は、そうとう特別な努力を続けてきたのでしょう。
次は「話せない」について。
あるテレビ番組で英語が話題になったとき、日本人の一人が「話せないと、頭が悪く見えてしまう…」と言っていました。だから自分は、英語を話す場にできるだけ参加したくない、というわけです。なかなか面白いコメントだ、と聞きました。確かに、聞いているだけで発言しない人は、自分の意見を持たないか積極性に欠けると見られ、次第に話し合いの中心から隅の方へ追いやられていきます。まぁ、たいていの場合、本人にしてみると、周囲が話す英語が聴き取れないから発言できないのですが…。
入門クラス、初級クラスの学生を相手にする会話教室の先生は、「話せない」学生に話すよう促します。話せば、何でもとにかく褒めます。初級の先生の仕事は、褒めることです。そうやって、話し手の心理的なハードルを下げます。会話のクラスでは、気軽に口に出せる雰囲気をつくること、一言でも多く口を開かせることが大切です。
(1)さて、そしていよいよ「話す」の番ですが、これまで書いてきた読む、書く、聞くの3技能と比べて、話すには明らかに異なる要素があります。それは、相手が要ることです。
もちろん、「相手なしに話す」こともありえます。例えば、スピーチコンテスト出場や外国語劇上演のように。これらの場合、一方では「読む」の延長という側面もありますが、直接の相手はいなくとも、観客や聴衆という相手がちゃんといるわけです。
この上演という言葉で思いつきましたが、これまでの3技能が舞台裏でやる稽古だとすれば、話すは、ステージ中央でハイライトを浴びる本番のようなものなのかもしれません。緊張はするものの、みんな、やはり稽古ばかりやっているより実際のステージを経験したい。そしてステージの上では、できれば上手に演じたい。しかし、たまには大失敗をやらかすこともある…。
(2)一言でいうと、話すことはむずかしくない。それなりの発音で、誤解の生じない文をゆっくり言えば、ほとんど通じます。むずかしいのは、相手と会話を続けることでしょう。
何度もNHK中国語講座の講師をつとめている陳淑梅先生が、そのエッセイの中で、面白いことを書いています。若き日に留学生として初めて来日した頃、陳先生は日本人と話すとき、いつも前もって何をどう話したらいいか、頭のなかで組み立ててから話していた。しかし実際には、なかなかうまく運ばなかった、というのです。
会話が「うまく運ばない」理由は、いろいろあります。外国語の初級者向け会話テキストには、旅行者が街角で通行人に道を尋ねる場面がよく登場しますが、仮に質問そのものは簡単であっても、(質問者にとって)その答えを聴き取ることも簡単であるとは限りません。なかなかテキストのようにスムースに運ばないことも多い。なぜなら、まずは質問者が理解できる単語が限られています。また、通行人つまり現地の人が話す言葉は人と場面に応じて幅広いバリエーションをもっており、話し手の想定内が聞き手にとってはまったくの想定外であったりします。相手に「もう一度言ってください」と確かめることができるのは、せいぜい2回ぐらいまでではないでしょうか。
結局、会話を続けるには、聞くと話すという2つのスキルが両輪のように必要です。
(3)話すという技能を思うと、私はいつも期待と不安がないまぜになったような気持ちになります。期待というのは、文化が異なる人とのコミュニケーションの楽しさに対する期待であり、不安というのは、「~と伝えることができるだろうか?」「相手の発言が聴き取れるだろうか?」という心配です。ある場合は、期待の方が大きい。ある場合は、不安の方が先行する…。
この不安の側面に、どのように対処するか?
いちばん簡単な方針は、無手勝流、当たってくだけろ、で臨むことです。コミュニケーションは言葉だけではありませんから、表情や身ぶり、笑顔の総動員でいきます。これはこれで良し。
なんとかしようとするならば、自分の実力にみあった準備をすることです。予想される話題に応じた質問や答えを考えて書いてみるなど用意しておくことは、決して無駄ではないでしょう。☜陳先生が書いているように、こうやって準備したからといって万全はありません。万全ではありませんが、やっぱり準備することが大切なのです。
(4)多くの英語本(?)を書いた松本道弘氏が、かつてその著書のなかで、「英語はインディアン・トークでも構わない」と書いていました。ここで言うインディアン・トークとは、1960年代のアメリカの西部劇映画のなかで、例えば
「インディアン 嘘 つかない。明日 白人二人 ここ 来る。」
といったふうに翻訳されていた、片言の発話です。(実際のインディアン・トークがどんな英語なのか私には分かりませんが、この翻訳でなんとなく雰囲気は掴めます。)
これは英語でなくとも、外国語全般に使えそうです。流暢ではなくとも、必要なことが伝えることができるーー私はひとまず、そうしたレベルをめざそうと思います。
(5)結局、話すという技能を開発するのに最も必要な気質とは、失敗を恐れず、めげないことなのかもしれません。
というわけで、「五里霧中シリーズ」が、ついにここで完結!
今日はなんとも、これまでだ。